2  「神」という言葉

はじめに神は天と地を創造された。

  (創世記 1章1節)


 聖書はこの宣言から始まります。天地の万物は神の創造する働きの結果として存在します。この働きがなければ、天と地のなにものも存在しません。神とは存在しないものを存在へと呼び出す働きそのもの、万物の存在に先立つ根源的な働きそのものを指す言葉です。なにも存在しないところには時も存在しないのですから、この「はじめに」は時のはじめではなく、すべての存在を存在させる根源的な働きを指しています。聖書では「神」という語は、すべてを存在させる根源的な働きそのものを指しています。

  ですから、神はあるかないかとと議論することは無意味です。有神論と無神論の区別は意味がありません。聖書を生み出したイスラエルの民はこのことをよく知っていました。イスラエルの民の祖先アブラハムについて、新約聖書のパウロ書簡の中の一節にこう書かれています。「彼(アブラハム)はこの神、すなわち死者に命を与え、存在しないものを存在へと呼び出す神を信じたのである」(ローマ書4・17私訳)。死者には命がないのですから、死者を生かす、すなわち復活させることは、存在しない命を存在へと呼び出すことに含まれます。神とは、生命を含む天地のすべての存在を存在させる根源的な働きです。

  実は「おまえはどこにいるのか」と問いかける問いは、この神からわたしに来ているのです。神とはただの働き、行為、力、エネルギーではありません。「光あれ」という言葉によって光を創造して光を存在させた、言葉を語る人格的主体です。その神が「御自分にかたどって」人間を言葉もつ存在として創造し、自分に背を向けて離れ去っている人間に「どこにいるのか」と問い、「立ち帰れ」と呼びかけておられるのです。

  わたしは「おまえはどこにいるのか」という問いかけを聞いたとき、自分はどこにいるのだろうか、自分とは一体何だろうかと、自己の存在を問う問いの前に立ちすくみました。この自己の存在の意味を問う問いは、実は「おまえはどこにいるのか」と問う方を問う問い、すなわち神を問う問いだったのです。わたしは、わたしを存在させている方に向かって、「あなたはどなたですか」という、神を問う問いを発していたのです。

  わたしはこれからの記事で、神という語を多く使うことになるでしょう。神とはどのような方であるのかという問いは、自分は何者かという自己への問いと一体です。これからこのブログの記事を読まれる方に、神という言葉が出てきたときに、このことを常に心にとめて読まれるようにお願いする次第です。


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