134  キリストの平安


「わたしはあなたたちに平安を残していく。わたしの平安をあなたたちに与える。世が与えるようにではなく、わたしが与える。あなたたちは心を騒がせず、恐れないでいなさい」。(ヨハネ福音書 14章27節 私訳) 


 わたしたちは苦難を恐れます。人生には苦難が避けられないことは分かっていながら、できるだけ安らかに生きることを願います。いま苦難の中にいなくても、将来どのような苦難が来るであろうかと不安の中にいます。人間は苦難を恐れ、それを避けるために様々な装置を工夫してきました。収入を確保するために経済や保険の制度を工夫し、敵の襲撃から身を守るために法律や警察や裁判所を作り、病気に対抗するために病院を設け、老後のために社会保障の制度を整えてきました。このように、わたしたちは「世が与える」平安を追い求め、それに頼って生きています。

 ところが、世界と人生の現実は複雑です。人生には予想できない偶発事件が起こり、社会は変動してその装置も揺らぎ、どのように工夫しても苦難が来ることは避けられません。その時、「世が与える」平安だけに頼っている心は怖じ惑います。どのような状況においても、心を騒がせず、恐れることなく、平安の中に生きることはできないのでしょうか。

 この切なる願いに、「わたしが与える」と断言される方がおられます。この方こそ復活者イエス・キリストです。この方が、わたしたちのために十字架の死を受け入れ、この世を去る前の最後の夜に語られた言葉が、このヨハネ福音書の言葉です。

 復活者イエス・キリストは、「わたしの平安をあなたたちに与える」と言われます。その方は、「世が与えるようにではなく、わたしが与える」と言われます。この平安は、わたしたちが置かれている状況とは一切関係がなく、直接この方からわたしたちの心に与えられる平安です。その方の名を信じ、その方に結ばれて生きる者は誰でも、その方から与えられる聖霊によって、このような状況を超越する平安という賜物を受けるのです。

 この平安は恩恵の場における平安です。「キリストにある」場は、神の無条件絶対の恩恵が支配する場です。そこは、自分が無(ゼロ)になる場です。自分が無(ゼロ)になっている場では、他の何がなくても父の恩恵の中に自分が存在していること自体が感謝できます。そこでは、何を失っても、この命を失っても、もはや心を騒がせ恐れることはないのです。それが「わたしの平安」、すなわち「キリストの平安」です。

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