154  富に処す道


 わたしは貧に処する道も、富におる道も知っている。わたしは飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。

(フィリピ書 4章12節)


 日本は敗戦の惨禍の中から立ち上がり、貧しさと戦い、必死に働いて繁栄を築いてきました。日本人は貧に処する道を知っていることを立証しました。しかし、その繁栄で得た富に処する道を心得ていないようです。国民総生産量(GNP)は大きくなりましたが、国民総幸福量(GNH)は低くなってしまいました。すなわち、物質的な富は豊かになりましたが、心は貧しくなり、充実感ではなく欠乏感に苦しむようになってしまいました。

 実は、貧に処する道よりも富に処する道の方が難しいものです。貧に処するには、倹約し誠実に働けば必ず道は開けます。ところが、人間は富を得ると必ず心たかぶり、自分の力を誇り、他者をさげすむという人間の自己中心の本性を膨れあがらせます。その高ぶりを克服して、人間としての成長と完成を追求することはきわめて難しい課題です。

 富は神からの祝福です。それはよいものです。しかし、それを「神から」のものと自覚するところに、富に処する道の出発点があります。それは神から受けたものですから、受けた人間は与えた神に、その富の使い方について報告する責任があります。その責任感が神への畏敬です。宗教は根本的にはこの神への畏敬から始まります。

 キリスト教社会やイスラーム社会では、この神への責任感がありますから、富を築いた人たちには、それを神が喜ばれる仕方で使おうとする意欲をもち、貧しい人たちを助ける事業に使う者も出てきます。ところが、神への畏敬を教える宗教を極力排除してきた日本では、成功した者たちは「勝ち組」と称して、自分の力で得たものを自分の欲するままに使って何が悪いとばかり、富を豪奢な邸宅や生活に注いで自慢し、傲慢になるばかりで、社会との連帯感をもって、貧しい者を顧みる謙虚さはどこにもありません。

 社会が真に豊かになるためには、富に処する知恵が必要です。人間の本性的な自己中心性と傲慢を克服する知恵は、世に見出すことは至難のことです。改めて、「神を畏れることは知恵の初めである」という聖書の言葉を思います。

ーーーーーー

ここをクリックして 「天旅ホームページ」  を開く。