230  罪人を招くために


 健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。

 (マルコ福音書 2章17節)


 イエスがガリラヤで「神の国」を宣べ伝えて活動しておられたとき、イエスは取税人のレビを弟子として召されました。レビは、これからはイエスの弟子として従っていくことを示すためか、盛大な宴席を開きます。そこには取税人の仲間など「罪人」と呼ばれているような人たちが大勢招かれていたので、当時宗教家としてユダヤ教社会で指導的な地位にあったファリサイ派の律法学者たちが、弟子たちに「彼は取税人や罪人らと食事を共にしている」と言って批判します。その批判に対してイエスはこうお答えになったのです。

  「義人」とか「罪人」というのは道徳的な規準で人を分けている言葉ではありません。それは宗教的な分類です。ユダヤ教社会では、ユダヤ教という宗教が生活と社会の一切を支配し規定していました。神殿で犠牲の捧げ物を規定通りに捧げるなどして、儀式をすべて正確に行い、安息日や食事規定などその宗教が求める行為規定を欠けることなく実行している人が「義人」です。それに対して神殿の祭儀を規定通りに実行せず、安息日や食事の規定などで宗教学者が定めた伝統に従っていない者が「罪人」と呼ばれたのです。義人は罪人の汚れに触れないように、食卓を共にするなどの接触を避けました。人羊飼いや遊女、さらに異教の支配者の手先となって神の民から税金を搾り取っている取税人など、その職業上宗教的な生活ができない人たちも「罪人」と呼ばれたのです。

 イエスはそのよう人たちを「貧しい人」と呼んで、彼らを呼び集め、仲間となり、食卓を共にされました。イエスを慕い集まってきた人たちに、「あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものなのだから」と祝福されました。イエスは人がどれほど宗教規定をよく守り行っているかどうかは問題にせず、どれほど自分の価値に絶望して神の恵み深い働きだけに頼っているか、その魂の姿だけを見ておられるのです。イエスはユダヤ教を相対化されたのです。ユダヤ教という宗教の規定をどれだけ行っているかを、神の国を受けるための条件とされなかったのです。このことが、ユダヤ教宗教の順守を要求する宗教家を怒らせたのです。ユダヤ教規定を守らなくても神の国を受け継ぐのであれば、ユダヤ教存在の意味がなくなるではないか。その怒りがイエスを死に追いやります。

 キリストが世に現れたのは、神に背いている世を神のもとに招くためです。キリストは背を向けて神から離れ去った人々を、無条件に神の恵みの支配に受け入れてくださいます。ある特定の宗教に所属し、その宗教の信徒であることはもはや条件ではありません。無条件の恩恵が支配するところでは、それを受ける者に神の力が働き、人を内から造り変えて、「神の国」の実現という宗教が成し得なかった目的を成し遂げます。

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