231  宗教の軛からの解放


  疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。そうすればわたしがあなたたちを休ませてあげよう。

(マタイ福音書 11章28節)


 イエスはある時、ユダヤ教の指導者たちに対して、「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」と言っておられます(ルカ11・46)。イエスがここで非難しておられるのは、ユダヤ教の宗教家たちが、民衆に多くの宗教規定を課して、それを守ることを強いておきながら、それを行う力を与えず、何の助けもしないことです。このお言葉から、イエスが「休ませてあげよう」と呼びかけておられるのは、宗教規定の順守という「重荷」を負わせられている民衆であることが分かります。確かに律法(宗教)は聖なるものでり、掟(その諸規定)も聖であり正しいものです(ローマ 7・12)。しかしそれが外から課せられるときは重荷になります。それを受ける人間の内側が変えられなければなりません。

 キリストが来られたのは新しい宗教を与えるためではありません。キリスト教という別の宗教に改宗させることは、問題の形を変えるだけで、問題を解決することはできません。人間が背負う苦悩と悲惨という問題を解決するのは、キリストとしてのイエスがわたしたちの内側に与えてくださる力です。イエスは、神に背いているわたしたち人間を代表して十字架の上で神の裁きを受けて死なれました。そのイエスを神は復活させてキリストとされました。この出来事を告知する福音を信じる者の内に働いて、神はその人を内側から変えてくださいます。その働き、人間の霊性の深みに働く神の働きが聖霊です。

 キリストは信じる者を聖霊によってバプテスマされます。すなわち、信じる者の霊に働いて信仰と愛と希望を創造されます。その働きがキリストであると言ってもよいでしょう。キリスト者(キリストに属する者)とは、自分の全存在をキリストに委ねて、キリストに連なり、キリストのこの働きによって信仰と愛と希望に生きている者のことです。このような繋がりを、イエスは「わたしの軛」と言われました(マタイ11・29)。イエスは自分を無にして父と繋がっておられました。そのように自分を無にしてキリストと繋がっている姿が、イエスの言われる「わたしの軛」です。そのようにキリストの軛を負う者に、神は聖霊によって働いて、その人が信仰と愛と希望に生きるようにします。もはや自分が働くのではなく聖霊が働いてくださるのですから、この軛は軽いものになります。

 このようにキリストに連なることを、パウロは「キリストにあって」と言いました。それはキリスト教という宗教の軛につながれることではありません。キリストにあってわたしたちは聖霊の働きを受け、すべてにおいて「父よ」と呼ぶ神の子としての信仰、悪に対して善をもって報いる愛、死からの復活の希望を与えられて、この生を生きるのです。


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