233  十字架されたキリストを宣べ伝える


 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架されたキリストを宣べ伝えています。(コリント第一  1・22~23)


 ユダヤ人は宗教する人間の代表です。宗教の世界では霊験を追求します。宗教する人間は、霊的な世界が現実の日常の体験の中に現れることを追求します。それに対してギリシア人は、人間の知恵を深めて統合し、それによって人間の諸問題を克服して理想に至ろうとします(哲学)。そのような世界で、使徒たちは「十字架されたキリスト」を宣べ伝えました。わたしたちも使徒パウロと同じく、先鋭化して対立する宗教の世界と、科学的知識と技術によって世俗化した世界の中で、ただ「十字架されたキリスト」を宣べ伝えます。

 キリストとは復活された方の称号です。神は十字架につけられて殺されたイエスを復活させて、世界の救済者キリストとされました。しかも復活されたキリストは、十字架された姿で世界に現れ、告げ知らされているのです。この十字架された姿で現れる復活者キリストを告げ知らせる言葉(ガラテヤ3・1)こそ、パウロがいう「十字架の言葉」であり、わたしたちを存在へと呼び出している創造者の最終的な語りかけなのです。それは「神の」福音なのです。キリストはわたしのために死なれたのです。この福音を信じる者、すなわち十字架された復活者キリストにおいて、自分を存在させている神が、わたしの背きを無条件に赦し、ご自分に帰るように招いておられるのです。その声を聞いて、その恩恵に身を委ねる者の中に働いて、神は御自身の命に生きる者としてしてくださいます。

 パウロは標題の言葉のすぐ後に、十字架された姿のキリストは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」だと続けています。宗教する人間は、自分たちの宗教の諸規定、祭儀とか信条、また生活上の倫理規定を守り行っておれば、それでその宗教が保証する祝福にあずかることが出来るとしています。十字架されたキリストの告知、十字架の言葉などは、その宗教の原理に反するものとして忌み嫌い、投げ捨てます。そして世俗世界の人間は、自分の知恵の総合(哲学)と、科学的知識とそこから生まれる技術だけで理想を追求しています。そのような世界の中でわたしたちは神の力であり神の知恵である「十字架された姿のキリスト」を宣べ伝えます。それが福音です。福音こそ信じる者を「救いに至らせる神の力」であり(ローマ1・16)、この世の知恵ではなく、「隠されていた奥義としての神の知恵」(コリントⅠ  2・7)なのです。

 神は福音を信じて、このキリストにその全存在を委ねる者に聖霊を注ぎ、その霊性の中に働いて人間を内から変革し、神の御心の中に秘められていた神の国の奥義を悟る知恵を与えてくださいます。信じる者、すなわちキリストの中に自分のすべてを投げ込んで、キリストの中に生きる者、パウロが「キリストにある」という表現で指し示している者の中に働く聖霊こそ、働きとしての神の力であり、その神の知恵です(コリントⅠ  1・24)。

ーーーーー

ここをクリックして 「天旅ホームページ」  を開く。