241  ヨハネ福音書のクリスマスメッセージ

  そして、言(ロゴス)は肉となって、わたしたちの間に幕屋を張った。わたしたちは彼の栄光を見た。父からのひとり子としての栄光であって、恩恵と真理に満ちていた。(ヨハネ福音書1:16)  


  ヨハネは自分が体験したイエスの出来事を語り伝えるのに、マタイやルカがしているように、伝承を用いてイエスの誕生の次第から始めるのではなく、それを「ロゴス」が肉となった出来事であるという宣言から始めます。イスラエルの民は天地万物の存在も世界の歴史の出来事もすべて神のことば(ロゴス)によって起こることを知っていました。神が「光あれ」と言われたので、光が存在しているのです。神が「わが民を解放する」と言われたので、イスラエルの民はエジプトから脱出できたのです。その言葉(ロゴス)は神であり、万物存在の根源であり、世界史の出来事の始源です(ヨハネ1:1〜3)。その言葉(ロゴス)が、人間の姿をとり、わたしたち人間の間に現れたのです。ヨハネは、自分たちの間に現れた神の言葉(ロゴス)、すなわちナザレのイエス、自分が「よく見て手で触れたもの」(ヨハネ一 1:1〜2) 、について証言します。

  

  イエスは地上におられる間、神の国、神の支配のこと、すなわちわたしたち人間が神との関わりの中に生きる生き方について教え、また病に苦しむ多くの人を癒すなどの働きを進めていかれました。その事実を見聞きしたヨハネは、その出来事をその福音書によって伝えてくれています。ヨハネ福音書は、イエスがなさった力ある働きの後に、その働きが意味することをイエスご自身が語れた講話で示しています。今回はその中の一つを取り上げます。ヨハネ福音書の九章に生まれつき目の見えない人を癒された記事があります。イエスが目の見えない人を癒して見えるようにされた記事は他の福音書にもありますが、ヨハネはそのイエスの奇跡の働きを、キリストの福音を語る機縁としています。ヨハネはこの出来事を、ユダヤ教の最高法院が「イエスをメシアと言い表す者があれば会堂から追放される」と決議していた時代に置いて(9:22)、癒された盲人をユダヤ教の法廷に呼び出し、誰が癒したのかと尋問します。その人がイエスによって癒されたと証言したので、法廷はその人を会堂から放逐します。ヨハネはこの出来事を、イエスをメシア・キリストと言い表してユダヤ教世界から迫害され追放されている民を励ます福音のメッセージとします。それが10章の羊飼いのたとえです。


  羊飼いを生業とする人が多いイスラエルの民の中で、イエスは神とその民との関わりをしばしば羊飼いの譬を用いて語られました。たとえば見失った一匹の羊を捜しまわる羊飼いのたとえ(ルカ15:4〜7)などは有名です。ヨハネはすでに十字架の上に死なれたキリスト、そして三日目に復活して今も信じる者たちの中に生きて働いておられるキリストを体験して知っています。その復活者キリストの働きを、しばしば聞いていた羊飼いのたとえを用いて語ります。ところがそれを語る10章は、数次の編集作業の結果か、多少複雑な構成になっています。生まれながらの盲目を癒された人が、それがイエスによることを証言した結果、ユダヤ人の間にイエスを信じる者と信じない者の分裂が起こります(10:19〜21)。冬の神殿奉献祭のころ、ユダヤ人は神殿の境内でイエスを取り囲み、自分をメシアとするのかどうか、はっきりとせよと迫ります。それに対してイエスは、「あなたがたがわたしを信じないのは、わたしの羊ではないからだ」と言って、羊飼いのたとえを語り出されることになります(10:22〜27)。

  

  羊は自分の飼い主を知っており、その声を聞き分けます。夜は囲いの中で休みますが、朝に門を通ってやって来る自分の羊飼いの声を聞き分けて、その人について行き、門を出て牧草のある地や水飲み場に導かれます。他の人にはついて行きません。イスラエルの民は自分たちの神を羊飼いとして従う祝福と平安を賛美しました(詩篇23編)。この伝統の中で、イエスはご自分を羊飼いとして、また羊が出入りする門として、神の民との関わりを語り出されます。最初に「わたしが羊たちの門である」と言って、神の民が神との関わりと交わりに入っていくための通路であることを語られます(10:1〜10)。この「わたし」はキリストであるイエス、十字架された復活者キリストです。わたしたちはこのキリストを通して神との交わりの現実に入っていくことができるのです。このたとえでは「わたしの前に、門を通らず塀を乗り越えて来た者は盗人であり、強盗である」と言われていますが、この「わたしの前に」は、「復活という終末的な出来事と無関係に」と意味に理解すべきであって、復活者でない者が宗教的な絶対性を要求するならば、それは神との交わりに至るための門を閉ざし、永遠の命に至る機会を奪い、結局人間性を奪うことになると言っているのです。


  イエスはさらに「わたしが良い羊飼いである」と宣言されます。そして「良い羊飼いは羊たちのために自分の命を捨てる」と言って、良い羊飼いの姿を描かれます(10:11〜18)。羊飼いではなく雇い人にすぎない者は、危険が迫ると羊を置き去りにして逃げてしまいますが、真の羊飼いは自分の命を賭して襲いかかる野獣と戦います。イエスが神の民のために自分の命を捨てられた事実、すなわち十字架のキリストに、ヨハネはキリストであるイエスが真の羊飼いであることを見ております。その比喩の中に、この囲い(ユダヤ教)に属さない他の囲いの羊(他宗教の民)もその声を聞き分けて、このかたこそ真の羊飼いであるとして従うようになり、多くの宗教の民が一つの群れとなって、神の民が形成されるであろうという壮大な預言も含まれています(20:16)。


  ヨハネはここで「良い羊飼い」と言っていますが、羊飼いは比喩です。比喩は霊の現実を指し示しています。復活者キリストは個々のキリスト者にとって「まことの葡萄樹」です(15:1)。この「まことの」は、比喩が指し示している霊の現実です。自分の命を捨てる「良い羊飼い」は、わたしたちのために死なれたキリスト、十字架された姿の復活者キリストを指し示す比喩です。わたしたちはこのキリストによって語られている声を聞き分けなければなりません。福音はこのキリストを語り伝える最終的な神の言葉です。この福音に神の声を聞き分けて、それに従う者こそ、神に所属する民、神の民です。ヨハネ福音書の「良い羊飼い」の比喩は、神の民が聞き分けて従うべき最終的な声が世界に響き渡ったことを語っています。「肉となって、わたしたちの間に幕屋を張った」方、ヨハネが「よく見て、手で触れた」と証言した現実の人、すなわちナザレのイエス、そして復活してキリストとされた方として「その栄光、父からのひとり子としての栄光」を見た方、その方キリストであるイエスを、ヨハネはすべての民がその声を聞き分けて従うべき「まことの羊飼い」として、世界に告知するのです。


  この方は「恩恵と真理」に満ちています。恩恵《カリス》とは、それを受けるに値しない者を含め、相手の価値と無関係に良いものを与えることです。たとえ自分に悪をもたらす敵であっても良いものを与えようとする姿勢です。十字架と復活というキリストの出来事において神がなしてくださった働きは、わたしたち背く者に命を与えるため、まさに恩恵の働きであったのです。真理《アレーセイア》とは、架空に対する現実、実際に存在し体験する現実、本物を意味します。このキリストとしてのイエスに「真理」が満ちているというのは、この方の中に神の現実の働きがなされており、わたしたちがこの方を信じて従い、その中に入っていけば、神の現実の働きを体験するということです。信じる者の内に、神ご自身が働いてくださいます。このわたしたちの内に働く働きが聖霊です。聖霊とは「真理の霊」、わたしたちを「すべての真理(リアリティ)に導き入れる霊」(16:13)、真理(リアリティ)を体験させる霊なのです。


  キリストにあるとき、わたしたちは天地の万物を存在させている方がわたしを存在させているのであり、その方が恩恵により無条件にわたしを受け入れ、わたしをその民の一員としてくださっているとの現実を知ります。ヨハネは、このように恩恵と真理に満ちた方が、歴史の中に現れたことを告知します。その方こそ、どの民族、どの宗教の民も、すべての人がその呼び声を聞き分けて従うべき「まことの羊飼い」です。

    (2019年12月)


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